時たま無性に土が恋しくなる。
それは首都エーデルワルドに出てから度々フレイヤが抱く感傷で、首都のど真ん中だと如何ともしがたい欲求ではあった。幼い頃から畑仕事に慣れ親しんでいたからかもしれない。だから嘘みたいな皇女入れ替わりを果たした今、皇女宮の庭園はフレイヤが安らげる数少ない場所だった。
(まぁ田舎の山道と皇宮の庭園を比べたら失礼なんだろうけど)
皇女宮の庭園を歩きながら、フレイヤは苦笑する。もちろん皇宮の庭園は美しいので、田舎の山々と比るるべくもない。木々の一本一本に至るまで整えられているし、咲き誇る花々はあるべき場所に自信満々に収まっているように見える。
ふわりと風が頬を撫でる
(気持ちいい)
ルシアと入れ替わって久しいが、基本的に皇女宮ではレッスンや課題などの時間を除くと皇女は放置だ。だから庭を散歩するのはちょっとした気分転換。フレイヤのお気に入りの日課だった。
(ただメイド長に見つかると面倒なのよね……)
皇女らしくない行動をしていては何を咎められるかは分かったものではない。目立つ木陰を避けて、植え込みの近くにちょこんと座りこむ。
風は穏やかだった。
土の匂い。葉の擦れる音。色とりどりの花々が視界に鮮やかな色彩を添える。
(……うーん、眠くなってきた)
次の講義は何だっけ?
今日はもう何もなかったんだっけ?
そう考えているうちに、日差しの温かさに誘われるようにいつしかフレイヤは目を閉じていた。
◇
皇女宮の庭師をして何年も経つものの、この庭で眠っている人間を見るのは初めてだった。
そもそもが宮殿の主人のためのプライベート庭園だ。使用人たちにとって庭は仕事の合間に目に入るくらいのもので、散歩を楽しめる人間なんて限られている。とはいえ。
(これはまた……)
庭師であるヤンは困り果てた。すやすやと植え込みに身体を預けて寝入っている麗しい少女の髪は白銀。姿と年代からしてもこの宮殿の主人である皇女殿下に違いないのだ。
今まで皇女をこんな間近でお目にかかったことはなかった。
皇女はかんしゃく持ちで触れぬが花だと使用人の間では有名な話だったし、実際関わってクビになった人間を何人も見てきた。だがいかに春といえど、庭で寝ていれば風邪も引く。日だって傾きかけている。
そしてどちらかと言うとこちらが本命なのだが、植え込みに体重をかけられると庭師としてはとても困る。悪ガキなら叩き出しているのだが、目の前にいるのは正真正銘の皇女である。彼女の無礼は無礼にならない。何せこの庭自体皇女のものなのだから。
それならばせめて移動させたいのだが、皇族の身体に使用人風情が直接触れるなど言語道断である。後が怖すぎる。
(いやしかし……)
すぅすぅと平和に寝息を立てる皇女の長いまつ毛が揺れている。問題児で皇帝からも見放されて久しいと言われているが、こうして見るとただの可愛らしい女の子である。もちろんただのと言うには世間では二目と見ない美人ではあるのだが、もう老齢に差し掛かるヤンとしては『娘もこんな時期があったなぁ』と微笑ましい気持ちになるのが本音だった。
もちろん目の前で寝ている少女は、起きればどんな爆弾になるかは分からないのだが。
コホン、と咳払いして恐る恐る声をかけた。
「こ、皇女殿下」
すー。
「皇女殿下ー」
頼むから起きてくれ〜、と内心でうめきながら呼びかける。その願いが通じたのか「ん……」とかすかに皇女が身じろぎした。同時にズルッと身体が滑って──。
「痛ッ──!」
悲鳴をあげた。ヒェ、と心臓が縮む。
「こ、皇女殿下⁉︎」
「あいた……あ、やば……っ」
あわあわしながら近くに寄ると、どうやら植え込みの枝に髪が引っかかったらしい。まだ起き抜けではっきりしないのか、ややぼんやりと見上げてくる皇女の瞳のピントが合ってくる様に嫌な予感が込み上げた。
「わ、私はここを偶然通りかかっただけです! 皇女様の身体には指一本触れておりません!」
ケチをつけられる前に慌てて言い繕うが、皇女はきょとんとするのみで、やがてようやく理解が追いついたのか『あ、ごめんなさい!』と逆に謝ってきた。
「気持ちが良くて寝てしまって! って、痛っ! あ、ダメ。これ外れない」
見事に絡まったのか、無理やり引っ張ると綺麗な髪が引きちぎれてしまいそうだ。皇女の瞳がこちらを向く。
「ハサミ持ってませんか?」
「は、ハサミですか⁉︎」
思わず素っ頓狂な声をあげた。まさか切るというのだろうか。いや皇女ともあろうお方がご自身の髪を切るはずがない。
「う、植え込みを切るのでしたら、お、大型の鋏が必要です皇女殿下!」
「植え込み⁉︎ 違います! 私の髪を……あ。切ってもらえます?」
そんな明日の天気でも尋ねるように死刑宣告をしないでほしい。皇女の髪を切るとか間違いなく極刑である。急いで地面に跪いて許しを乞う。
「か、勘弁してください! 娘はもう巣立ちましたがもうすぐ孫も産まれるんです!」
「何でそうなるの⁉︎ じゃ、じゃあ外すの手伝ってください!」
「どうかご容赦ください! 皇女様の髪にこの老いぼれの手が触れるなどあってはならないことです!」
「えぇ、なんて不便……」
よく分からないことを呟いて、皇女はため息をつくと『じゃあ無理やり引き千切るしかないかな……』と不穏なことを呟いた。
「それはあってはいけません!」
自分の手入れしていた庭で皇女の髪を切る事態に陥ったとか、もう目も当てられない大惨事だ。長年勤めてきた職を辞職しなければいけないレベルで。
「……ここで貴方が手伝ってくだされば私の髪は無事ですよ。あとこれは無かったことにしましょう、ヤンさん」
突然名前を呼ばれて目を丸くした。にっこりと笑って、皇女は自身の引っかかった髪を引っ張って見せる。ダメだ、そんなふうにしては綺麗な髪が千切れてしまう。
ここまで来ると、前門の虎、後門の狼である。
「で、では失礼して……」
諦めて少女の細い髪の毛を枝から外しにかかる。
「……私のお名前をご存知なんですか?」
「庭師はお二人しかいないのですぐに覚えますよ。宮内の庭園は木も花も伸びやかでとても気に入ってるんです。いつもお世話をありがとうございます」
「きょ、恐縮です」
話しながら、なんだ、と拍子抜けした。
(普通の女の子じゃないか……)
長年ずっと扱いづらく、関われば酷い目に遭うと言われていた。ずっとだ。
するりと髪が解ける。できましたよ、と声をかけると皇女は『ありがとう』と笑った。
「じゃあ私はヤンさんが私の髪を触ったことは内緒にしますから、ヤンさんは私が庭で眠っていたことを内緒にしてくださいね」
茶目っ気たっぷりに笑う皇女殿下に一瞬見惚れる。
同時に何となく確信する。この方は少なくとも噂に聞いていたような人物ではない。誰かを積極的に罰するような人間には見えない。
「はい、かしこまりました。殿下」
幾分か力が抜けて、笑ってそう答える。
「はい。では私は戻ります。そろそろ戻らないと叱られてしまいますから」
そう言って皇女はドレスの裾を翻して、軽い足取りで庭を走って行った。皇女らしかぬ振る舞いは、だけど先ほどの笑顔を思い出せば彼女らしい振る舞いには思える。
(何しろ庭の植え込みで寝てしまうようなお方だしなぁ)
苦笑が漏れた。長年勤めてきて気付かなかった、小さな花を見つけた気持ちだった。
それはそうとして、と後に庭師は語る。
謹慎中だと言うのに、いきなり庭に現れたかと思えば執事の部屋の窓にハシゴをかけてくれと頼まれた時は何事かと思った、と。
