※本編42話後の公爵家のお話です。本編読後に読んでいただけたら。
「フェノンの好み?」
はい、と神妙にオルトヴァール公爵家夫人・フリーダは頷いた。
久方ぶりに公爵家の屋敷に帰ってきた夫を何とか捕まえること、真夜中である。いつもなら寝入ってる時間だが、今日こそはと気合いを入れて起きていたのだ。
「……知らんな」
(もう〜〜〜!)
わずかな沈黙を挟んで出た夫の予想通りの答えにフリーダは両手で顔を覆いたくなった。
この父息子は本当に関係性が淡白なのだ。たまに二人の会話を聞いていると冷戦状態かと疑う時があるくらい。控えめに言って二人とも表情筋が死んでいる。あまりに淡々と会話してるので、一度心配になって夫に仲は大丈夫なのか聞いてしまったこともある。夫曰く『問題ない。意思疎通はできている』だそうで、意思疎通できるのは大前提ではないか、と己の常識から疑う羽目になった。
夫の表情でさえ幾年かの夫婦生活を経てようやく読み取れるようになったかというくらいなのに、長子であるフェノンとはマトモに顔を合わせて話をしたことがないのだから、わからなくて当然だ。
ソファに座った夫はそのまま執務室から持ってきたであろう領地の報告書をめくり始める。そもそも夜中に夫婦の寝室に来て尚まだ仕事をするつもりなのかこの人は。
いつもならここで諦める。だけど今日はもう少し勇気を振り絞って、ソファに腰掛けた夫ににじり寄った。
「あなた、今年フェノン様は成人なんですよ。私適当にしたくないのです」
「アレは君のやることに文句を言ったりしないだろう」
そういう問題じゃありません! と心中で間髪入れずに声を上げる。子爵家の娘時代ならきっと声に出してしまっていただろうけれど、死に物狂いで身につけてきた公爵夫人としての礼節で表には出さずに堪えた。だが文句とかではなくただ喜んで欲しいのだ、といってもこの夫にはイマイチ通じないのだろう。これでも夫婦生活は十年を超えたのだ。よく知っている。
「それに今回は君が心配するようなことはない」
「え?」
「皇女殿下がお越しになるからな」
意外な言葉に目を瞬かせた。
(皇女殿下がお越しになるから?)
心中で言われた言葉を繰り返して、やはりフリーダは首を傾げた。
「でも、皇女様は……」
社交界のお噂によると、皇女殿下は大層人見知りで且つ扱いにくい御方なのだそうだ。クレイモア令嬢のお茶会で机をひっくり返したとか、馬鹿にされた腹いせに有ること無いこと令嬢を詰ったとか、その時手が出たとか出ないとかあれやこれや。当の本人は表に出てこないので噂の真偽は定かではないし、噂というのは尾ひれ背びれがつくのは日常茶飯事なのでフリーダも丸ごと信じているわけではない。
だが最近唯一ご出席された夏至祭は夫が仕事の関係でパートナーが出来ないと言われたからフリーダは出ていなくて、皇女殿下とは昨年一度形式的な挨拶を交わしたことがあるだけだ。つまりご本人の人となりをよく知らない。
でもそういった噂話を夫の前でまるで自分が見聞きしたように口にするのは恥ずかしいことだと思って、モゴモゴと口の中で言葉を探す。
それを察したのだろう。
「……あぁ。杞憂だ」
まるで心を見透かしたように、夫はそう口にした。
「あの方は誠実な方だろうから」
「え?」
もう寝なさい、と子どもに言うように夫が口にする。これで話は終わりのようだ。彼の意識はもう完全に仕事にいってる。こうなるともう話を聞いてくれないことは分かっているので、フリーダはため息をついて大人しく引き下がった。
◇
フリーダは北部の小さな子爵領から公爵家に嫁入りした。
結婚当時は公爵夫人としての仕事を覚え、周囲に認められるために必死で、彼の長子である小さな男の子に向き合う時間も心の余裕もフリーダにはなかった。今となっては言い訳に過ぎないが、夫が養育しているからと甘えて放置したのだ。まだ母親の愛情が必要な子どもを。
フリーダがようやく幼い長子に目を向けることができたのは、自分が子を妊娠してからだった。
フェノンのことは、それまで以前の公爵夫人の姉がずっと世話をしてくれていた。だが彼女も自分に気を遣ったのか、間も無く故郷へ下がると耳にしたのだ。ちょうど良いタイミングだから挨拶に行ってはどうかと侍女に言われて、フリーダはようやくこの家の長子と向き合う勇気を出した。
だけど──。
「あ……」
その日、フェノンの部屋に向かう廊下で、運悪く本人と鉢合わせた。
フリーダにとって今まで向き合えていなかった子どもと向き合う事は、ただでさえ心の準備が必要なことだった。自分が小心者だという自覚もある。だからタイミングは最悪だった。心の準備が整わず黙ったまま立ち止まるフリーダに、目の前の小さな子どもは──。
頭を下げて道を開けたのだ。
無感情な赤い瞳が礼儀正しく伏せられている。その態度は、この家の上下関係をよく心得た仕草だった。公爵家の嫡男とはいえ、まだ幼い子どもが。
当時の彼がどんなつもりでフリーダにそういった態度を取ったのかは分からない。ずっと話しかけることもなかった新しい公爵夫人への反抗だったのか、もしくは本当にそうすべきだと思ってただ礼を尽くしたのか。今となってはおそらく後者なのだろうと思える。
ただその時の自分は──。
線を引かれた気がした。
笑ってしまう。大の大人が、小さな子どもに何かを期待するなんてあってはならないのに。どうしてか裏切られた心地がして、結局何も言葉にならないまま、フリーダは軽く会釈をして、目を伏せたままそばを通り過ぎた。
その後もフェノンは終始フリーダに丁寧だった。嫌味でも当てつけでもなく、ただ当然そうすべきだというように礼儀正しかった。関係が悪いわけではない。ただ、話をしないだけ。些細なすれ違いはいつしか亀裂になって、気付けば何気ない会話をする勇気はなくなっていた。ともすれば、ごめんなさい、と口に出しそうになって、それだけはと口を閉じた。こんな小さな子に赦しを求めてどうするというのだろう。
(──ごめんなさい)
だから心の中で謝るしかなかった。
弱虫で、ごめんなさい。
ずっと向き合う勇気がなくて、ごめんなさい。
そう言い訳をする内に時は過ぎ、ヘルマンが生まれ、エマが生まれた。せめて自分の子供たちがフェノンの地位を脅かすことがないようにと、兄を立てるように言いふくめ、邪魔をしないよう言い聞かせた。それなのにある日フェノンは皇女との婚約が決まり、公爵家を継ぐのはヘルマンの役割になったのだ。
元いた場所さえ奪ってどうして。
今更どんな顔をして話しかければいいと言うのだろう。
距離は開くに開いて、ずっと埋められないまま。そんな折、フェノンの成人の誕生会で皇女殿下と話をしたのだ。フェノンがどう思っているか聞いてみます、と笑った皇女殿下はとても愛情深くて誠実な方に思えて、皇女殿下の根も葉もない噂を夫に伝えずによかった、とフリーダは心から胸を撫で下ろした。
その時皇女殿下に頼んだことをフリーダが思い出したのは、翌日のことだった。
◇
パーティーの翌朝。
朝食の席へ向かう踊り場にフェノンが立っていた。
「……」
思わずフリーダは階段の上で立ち止まってしまう。当たり障りない会話や挨拶くらいなら出来ていたのに言葉に詰まったのは、きっと普段は伏せられた瞳が自分の方を向いていたからだろう。
緊張したまま階段を降りる。心臓の音が響くようで、こくりと唾を飲んだ。
(あいさつ、そう。あいさつを……)
息を吸ってタイミングを見計らう。どのタイミングなら無視に見えないのか、不自然じゃないのか。礼節を持って、敵意も悪意もないのだと分かるように、謙虚に。
「おは……」
「おはようございます、夫人」
びくー!と思わず過剰に反応してしまった。
「昨日は過分な場を準備いただきありがとうございました」
「……と、とんでもありません。わざわざ待っていてくださったのですね。ありがとうございます」
何とか取り繕った。そうだそうだ、この方は丁寧にちゃんとお礼を言ってくれるお人なのだ。
ただ、この日はいつもとは違った。
「夫人が私を気にしてくださっていたと皇女殿下にお聞きしました」
「え⁉︎」
フェノンが続けた言葉に、思わず声がひっくり返った。同時に昨日自分が皇女にこぼしてしまった、過分な頼み事を思い出す。
(まさか本人におっしゃったの⁉︎)
サーっと血の気が引く。
これは予想外だ。しかもよりにもよって婚約者の皇女殿下に隠れて相談しただなんて、怒りを通り越して幻滅ではないだろうか。だがフェノンはフリーダの心中の狼狽に気づいているのかいないのか、淡々と続ける。
「これまでもし私が夫人に気負わせるような振る舞いをしていたなら気付けず申し訳ありません。私の振る舞いで誤解を招くこともあったのではと」
「ち、違います!」
気付けば反論していた。
「フェノン様に悪いところあった訳ではありません……! ただ、いつも私が勝手に用意を進めてしまうので。好みも聞けず、それが、申し訳なくて……」
今までフェノンの前で声を上げたことがなかったからかもしれない。フェノンが一瞬黙った。そして。
「……そうですか。ですが個人的な好みなどはないので気にせずとも問題ありません」
そう、淡々と口にした。
「ないのですか?」
「はい」
何でもないことのようにフェノンが答える。
「ご、ご不満に思われたことなどは?」
「いいえ」
反論の余地もないくらい、清々しい即答だった。
「夫人はいつも完璧に準備をしてくださるので、不満を申し上げる事柄が見当たりません」
感謝しています、と口にされた言葉に嘘はないことがなぜかスッとフリーダにはわかった。どうしてか。だってこの反応には覚えがある。
(あの人も、そうだもの)
夫の答えはいつも簡潔だ。建前とか、おべっかとか、そういうのがない。もしかしたらフェノンも同じなのかもしれない。
「そう、ですか……」
気が抜けたように答える。
ではこれで、と頭を下げたフェノンを待って、と呼び止める。
「何か?」
フェノンが振り返る。
いつもこうだ。必要なことしか会話できなくて、先が続かなくて。だからまた勇気が必要になる。だけど一言くらいは。もう一言くらいは、何か会話を──。
「さ、先ほどのことは不満がある訳ではなく、フェノン様がどう感じているか知りたいと皇女様にうっかり溢してしまっただけなのです。そうしたら皇女殿下が『自分が尋ねてみようか』と嫌な顔一つせずに聞いてくださって──」
会話の当てなどなく、何とか会話の糸口になりそうな皇女殿下の話を続ける。だけど彼女に感謝しているのは本当だ。嘘は一つもない。
「素敵な方ですね。皇女様は」
そう誤魔化すように続けた、フリーダの言葉に──。
「……そうですね」
一瞬、見間違いかと思った。
(笑っ──)
◇
「あなた!」
夜半。今日はお仕事をやめて私のお話を聞いてください! と、寝室に案の定書類を持ち込んできた夫の隣に陣取ると、夫は意外そうに目を瞬いて書類を脇に置いた。
「久しぶりだな。君のそんな大きな声を聞くのは」
寝なくていいのか? と尋ねる夫にそれより大事なことがあるんです、と詰め寄る。
「どうした?」
「私今日フェノン様が笑ったのを初めて見たんです!」
「……」
夫の鉄面皮から一体それがどうした、という気配をひしひしと感じる。だがめげずに続ける。
「フェノン様が全然ご不満に思っていらっしゃらないのもちゃんとわかりました」
「だろうな」
「私少しフェノン様とお話しするコツを掴んだ気がします」
「コツ?」
「だってフェノン様とあなたってとっても反応が似てるんです。それなら前よりちょっとはフェノン様のことが分かる気がして! だって私はあなたの妻ですから!」
勢いよく口にすると、かすかに夫が頬を緩めた。
「何で笑うんですか!」
「……いや、良かったじゃないか」
珍しく夫が長く苦笑している。この人は普段滅多に笑わないのに、こうしてたまに私を小娘でも見るかのように笑うのだ。この瞬間は普段は怜悧な夫の瞳が柔らかくなる。それが自分への愛情からくるものであることは疑いもなく、いつもは頑なな表情が少しだけ無防備になるのが好きだった。
(あれ?)
不意に、夫の優しげな瞳が、今日別れ際のフェノンの瞳とブレた。
(あ、もしかして……)
「フリーダ?」
呼ばれた声に目をぱちりとして、フリーダは『もう一つわかった気がします』と今度は神妙につぶやいた。
「何を?」
夫の問いにフリーダは微笑んだ。
何だか期せずして長子の秘密を知ってしまった気がする。こんなことを言う資格は自分にはないけれど、それでも少しだけ嬉しい気持ちで、どこかこそばゆい気持ちで、フリーダは続けた。
「あなたが皇女殿下が来るから大丈夫といった意味が、です」
